鯉口ちゃん生きる

おかーちゃんの人生はおかーちゃんのもの

親馬鹿なんて呼ばないで

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娘を連れて初めてピクニックに出かけた。うっかり気温30℃まで上がった日だったので30分程度で切り上げたが、娘は初めての地面と草とハイハイン(とんでもないシャブみのある赤ちゃんせんべい)、親はモスバーガーのテイクアウトを楽しんだ。わたしはインドアオタクなのでアウトドア全般好きではないのだが、芋煮会やビアガーデンやオクトーバーフェストや朝市やマルシェや芋煮会などと言った「気候のよい季節に昼から外で酒を飲むイベント」と「芋煮会」は大好きで、ピクニックはそっちの範疇に入るため今後もやっていきたい。

 

ところで娘は、最初からピクニックを楽しんだわけではない。初めてのシートの感触、見た目、大きさ、そして床やベッドとは違う屋外の地面に警戒心を露わにした。スタート10分ほどはじっと周囲を伺って固まっていたし、おずおずと動き出してからも親の様子を伺いながら慎重に新天地の調査をおこなっていた。化石採掘者もかくやと言わんばかりの慎重さだった。

これは俗に「場所見知り」と呼ばれるものだ。

そしてわたしは、この「場所見知り」という言葉を、あまり好まないときがある。

大抵は親や親族等、関係性の近い人間が使うときだ。「場所見知り」と言う言葉を、特に親や親族、が使う場合は「びびり」「引っ込み思案」「積極性がない」というマイナスの意味を内包していると感じることがある。大抵は謙遜由来だと思う。わたしはそれが、とても、とても好きではない。

具体例を挙げてみよう。

  1. 「この子びびりだから、新しい場所に来ると固まってしまって、すぐには動かない(から駄目)」
  2. 「この子は警戒心が強いから、新しい場所では迂闊に動かず、まず安全かどうかを確認する(から偉い)」

極端な書き方をしたのでかなり違う意味合いに感じられるが、どちらも「我が子は場所見知り」を伝えている。わたしは、同じ意味でも2の表現を使いたいと思っている(というか1は生理的に受け付けない)。

 

で、ここで2つ目の問題が出てくる。「我が子謙遜」と対を成す「親馬鹿」である。

「この子場所見知りなんです、びびりなんで」ではなく「この子警戒心が強いからすぐには動かないんです、慎重派でしょ?」とでも言おうもんなら「まあ親馬鹿!」と言われることうけあいだ。口には出されずとも思われることもあるだろう。

わたしは「親馬鹿」と呼ばれることも好まないおかーちゃんである。何故か。

辞書を引こう。

 おやばか【親馬鹿】

子どもかわいさのあまり、親がおろかなことをしたり、はたからおろかに見えたりすること。そういう親。

 なにをかいわんや。

「子どもかわいさ」はともかく「おろか」とは心外極まりない。

わたしは、極めて戦略的で理知的に我が子を分析し、極めて客観的な言葉で我が子を表しているつもりである。「子どもかわいさ」に目が眩んで「おろか」なことを言っているのではなく、むしろ逆、「子どもかわいさ」にさえ目を眩ませず「客観的」なことを述べているので、親馬鹿とは呼ばれたくないのはそういう理由からだ。

生まれてからまだほんの8ヶ月、外の世界に初めて触れたその瞬間に、8ヶ月の間にきちんと育んできた警戒心で新しい環境を見定め、危ないことや痛いこと怖いこと不愉快なことが起こらないかを小さな頭で判断し、勇気を出し、自らの力で1つ、また1つと確認し、世界を広げ、構築していく。

それゆえの「この子は警戒心が強いから、新しい場所では迂闊に動かず、まず安全かどうかを確認するから偉い」

そういう娘の行動、そして娘の行動を余さず見極め理解し言語化したおかーちゃんの優秀さを褒めるところであり、親馬鹿と鼻で笑うところではない、ないのだよそうだろうハム太郎

 

例えばボール遊び。

最近オモチャにボールを買い与えてみたら、見事にはまった。まるで新ジャンルにはまったばかりの腐女子のような興奮ぶりで奇声を上げながら遊んでいる。最初はボールの球面に囓りついたり舐めたり触ったりと形を確かめたり、中に入っている鈴を鳴らしてみたりするだけだったのが、今は朝から晩までキャッチボール、寝ても覚めてもキャッチボール、たっちゃん南を甲子園に連れてってとばかりにキャッチボール、とにかくキャッチボールに明け暮れている。投球というか床の上を転がすキャッチボールなのだが、最初はおかーちゃんが転がしたボールにギャッギャと爆笑していた。第二段階としておかーちゃんが転がしたボールを取る素振りを見せ始めた。そして第三段階、ついに娘は自分でボールを転がし始めた。「ボールを投げるという意思を持ち」「ボールの行き先をおかーちゃんとさだめ」「腕の使い方を理解し」「おかーちゃんに向けてボールを転がし」「おかーちゃんが自分の転がしたボールをキャッチするところを見届ける」、この一連。かなり高度な思考と運動が、娘のはまっているキャッチボールにはある。

例えば甘え方。

これまで用事があると怒り狂いながらおかーちゃんを呼びつけていた娘が、自らべたべたとおかーちゃんに抱きついてくるようになった。洗濯物を畳んでいる背中や、ソファに座っている足にぎゅうと腕を回し、怒るでも泣くでもなく、えへえへと笑ってぴったりとくっついてくるようになった。ものすごく明確に甘えられているなと感じる。愛着のアピールもあるように思う。そしてこれらの行為は「自分」と「おかーちゃん」が別個体である認識がないと難しいように思う。娘の自我が発達している証拠だ。

例えばおかーちゃんの美顔パック。

風呂上がり、使い捨てのパックを顔に貼った。娘には怯えられるか泣かれるか、まあどっちみち誰か分からないだろうな、と思いながら娘の前に出たところ、娘は100度見ぐらいしながら「おかーちゃん!? どうした? なんかあった? 辛いことでも? 話聞こうか?」とでも言わんばかりにおかーちゃんにべったりくっついてきた。怯えも泣きもせず、おかーちゃんだとははっきり分かった上で、いつもと違う様子のおかーちゃんに驚愕しながら、きっちりくっついてくるという離れ業を成し遂げてみたのだ。その後パックを剥がしたら「あ、いつものおかーちゃんだ!」という笑顔で歓待を受けた。娘の人物認識力の高さ・幅広さを感じた一件だ。

 

どのエピソードも謙遜を入れる隙はどこにでもある。でもわたしは娘の行動を余さず見極め理解し言語化できる優秀なおかーちゃんなのでこの通りである。

そして前回の記事でも触れたが「自己肯定感の形成」は、こういう1つ1つの積み重ねの先にあるんじゃないかと思う。まあこれは娘の自己肯定感を形成するためではなく、わたしがそういう表現を使いたい人間なのでそうしているだけだが、謙遜したくないのとは別に娘の自己肯定感は育ててやりたいので一石二鳥である。

 

ところで「親馬鹿」の話に戻るが、意味に「はたからおろかに見えたりすること」が入っていると、受け取り手側の解釈も出てくるので、おかーちゃん一人の対応ではちょっとどうしようもできない。でも仕方ない。古来より女性向け二次同人界隈でも、解釈違いは宗教戦争に発展しかねないので。

「親馬鹿」解釈違いです。

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投げても投げても大好きなボールがなくならない興奮にキャパオーバーを起こしてフリーズ。