鯉口ちゃん生きる

おかーちゃんの人生はおかーちゃんのもの

歴代の推したちをあの手この手で愛でまくってきたオタクおかーちゃんにとって、娘とは

「特に子供好きではなくても我が子は別、我が子はかわいい」という話を聞き「さて子供好きではないわたしはそのように思えるだろうか」とぼんやり思いを馳せていたのは妊娠後期、会社とすったもんだの泥沼大喧嘩を繰り広げた結果、無事1ヶ月前倒しで獲得した勝利の産休中のことである。

それまではトラブルに次ぐトラブルに次ぐトラブル、に次ぐトラブル!!!って感じの、妊婦トラブル総合商社になっていたので、「この腹の中の人が無事産まれたら」という不確定未来を想像することはとてもできなかった。産休に入り精神的・肉体的に余裕が生まれてようやく産後の赤子との生活について考えられるようになったので、早いとこ国は「産休は6週間前から」などふざけたことを言わず最低でも10週前から入れるようにしてほしい。

話がずれたが、その、過酷な妊婦生活の中でもっとも精神的肉体的に余裕のあった産休時期に、当時腹の中でだいぶ元気に大きく育ちズンドコ暴れていた我が子がハローニューワールドしてからのことを考えてみたのだが「うーん……かわいい……?分からん……」という感じだった。マックスに余裕のある、そろそろ出産という時でそれである。

ではそんな偏屈妊婦鯉口は何を考えていたのかというと、次のように考えていた。

「産後、母子ともに無事生還し、新生児を死なせず共に生き延びる、この一大事業、それ以外の一切に煩わされない環境になってようやく、我が子をかわいいと思うようになると思う。なのでまずは環境の整備、新生児のお世話以外の徹底排除、優先順位の確定、次いで知識の習得、何が起こっても思い通りに行かなくても冷静に対処できるよう色んなパターンを想定しておくのが吉だろう」

わたしは偏屈で現実的な女なのだ。

 

果たしてわたしは、案の定思い通りに行かない新生児相手に「だがしかしこんなこともあると思っていた!」と対処したり努力したり諦めたりした結果、今、娘がかわいい。大変にかわいい。

 

どれぐらいかわいい?と問われると、

「かわいいのベクトルの方向性が今まで出会ってきた人間や推しキャラたちとは全然違うねじれの位置的なところにあるので比べることはできない、〇〇よりかわいいとかよく分からん、そういうもんではない、だがしかしかわいい」

という感じだ。

 

そのかわいい娘にどこまでできる?と問われると、

「オムツが換えられるとかうんちが触れるとか夜も眠らず対応できるとか、そういう一般的に見た“負の行動”ができる、ということがかわいいへの対価になるという考えはなんか違う。とりあえずできないことが今のところないが、それはじゃないと娘死んじゃうからだ。夜は眠いし、感染症が怖いから不用不急のうんちタッチはやめた方がいいと思う。でも娘がうんちしようと顔真っ赤にして踏ん張ってる顔とか、全部出してえへへ〜って笑ってる顔とか、よっしゃじゃあ換えたるで〜って開いたオムツにどっさり出てるうんちなどは、よくがんばったな!えらいぞ!って気持ちでかわいい」

という感じだ。

 

わたしに関して言えば、なるほど「特に子供好きではなくても我が子は別、我が子はかわいい」説は正しかったと言える。

だがかなり省略されている。

正確には、

「特に子供好きではなくても我が子は(共に暮らしてなんとしてでも命を繋いでいく必要がある存在であるという点で)別、(こっちがお世話をしないとあっという間に死んでしまう命をなんとか1ヶ月検診まで繋ぐと、何考えてるかさっぱり分からず得体の知れなかった赤子が実は、これまでは本人の意思関係なくただ生きるための原始反射で生きていたのが、今、ようやく何かを考え始めたのかもしれないことに気付き、そういう小さな気付きをひとつひとつ重ねていくことでコミュニケーションが成り立っていき、それに従って次第に情緒も発達していく、それを余さず見てるもんだから)我が子はかわいい」

ということじゃないかなと思った。

そして我が子とにかく無条件でかわいい存在になった今、カッコ内に省略されているあれやこれはもはやどうでもいい、我が子が特別にかわいいことに違いはない、そこさえブレなきゃあとは全部どうでもいい、だから省略されるんだろうな、と思う。

 

じゃあ、どんなところがかわいい?

これまで数多の推したちをあの手この手で愛でまくり、あまつさえ己の語彙を駆使してそのかわいさを、正確には「推しAのかわいさ」を「推しBの視点」から考えた「客観的視点:わたしの推しポイント」を書き殴り続けてきた腐女子オタクおかーちゃんは考える。

これはつまり「娘のかわいさ」を「おかーちゃんの視点」から考えた「客観的視点:わたしの推しポイント」ということだ。ややこしいが、そういうことなのだ。何が違うのかと問われれば、わたしの心境が違うのだ。大事なのだ。偏屈な女なのだ。

 

娘はおかーちゃんに似ていない。

わたしにもっとも似ていたのはエコー写真の頃で、産まれたその日から日に日にわたしに似ているところがなくなっていき、4ヶ月経った今は夫と同じ顔をしている。ふにふにのほっぺたを味わうよう萎びたわたしの頰をくっつけて鏡を覗くと、まったく似ていない母娘がそこにいる。「う、うわ〜似てねぇ〜〜」とおかーちゃんが唸るのを他所に、鏡を見るのが大好きな娘は顔をつぶれまんじゅうみたいにしてウキャキャと笑う。

親の贔屓目をプラスしても娘の顔は平たい。小児科の待合室にいる乳幼児の中でダントツに平たい顔族なのはザラ、街を行くはっきりした目鼻立ちの子を見た後に我が子を見ると「おお……なんとお地蔵様のような顔……ありがたみがあるから拝んでおこう……」と思っていただが、実際にお地蔵様と並べてみたら娘よりお地蔵様の方が顔がくっきりしていた。

 

娘はおかーちゃんが大好きだ。

というか娘は、彼女が寝てから帰宅することが多いおとーちゃんのことを3日に1回くらいの頻度で忘れている。他所の人間にはよそ行きの顔で愛想を振りまく娘なので「この髭の男は知らん男だな、笑っておくか」から始まり「ん……?この髭の男はもしかして知っている男かもしれん……?」からの「アッ!この髭の男おとーちゃんじゃん!おとーちゃん!」と思い出すまで結構時間がかかる。その点おかーちゃんは育休中なので基本ずっと娘と一緒にいる。あまり会えないおとーちゃんに限らず、遠方に住む両実家の祖父母に会ったり知らない人に会ったり、娘が触れ合う人間やコミュニティはころころ変わる。そんな中、娘の世界で唯一変わらないのがおかーちゃんなのだ。わたしは母乳もあげていないから、娘がわたしを好む理由は「一緒にいる時間が長い」本当にそれだけだ。それだけだと思っていた方が傲慢にならずに済むので、それだけだと思っている。

それだけだが、それだけでもわたしの顔を見るや否や「わーーーい!おかーちゃーーーーん!!!」ってウキャウキャ笑い身体をくねらせて喜ぶ娘はかわいい。朝の寝起きや、一人遊びをしてる最中、散歩中のベビーカー、覗き込むたびに「あ!おかーちゃん!おかーちゃん!」と言わんばかりに顔を華やがせる。悲しかったり辛かったりするときも、わたしの顔を見るとひとまずヘラっと笑う。すぐに顔をくしゃくしゃにしてベソをかくが、ひとまず笑おう、という意思でわたしを見る。月齢4ヶ月にして悲哀の入り混じった複雑な情緒を体現している。

 

娘はおかーちゃんに似てよく怒る。

ビジュアルはわたしに似ているところがほとんどないが、内面は悲しいほどわたしにそっくりだ。産前は夫の穏やかで争いを好まず他人に積極的な感情を持たないところが似ますように、と祈っていたのだが、似ない方がいいところがよく似るものらしい。

娘は出来ないことに怒る。

唐突に寝返りの練習を始めた2ヶ月の終わり、やりたいこと・ビジョンは明確なのにうまく身体を動かせない。そのことに怒り狂って奇声を上げまくっていた。それならと補助してやるとこれまた怒る。彼女の思い描いた回転とは違うから、余計なことはするなとばかりに金切り声を上げる。それを、1時間ぐらいやり続ける。今はずり這いができないことに怒りの声を上げている。だが切り替えも早いみたいで「ずり這いができなくとも動く術はある!」とばかりにすっかりマスターした寝返り3回転を決めて定位置の座布団から脱走し、それをおかーちゃんに回収されて元通りに戻されては同じ事を無限にくり返している。前だけを見て進む女なのだ。

娘は世の理不尽に怒る。

今の彼女にとって最大の理不尽は予防接種だ。痛くて辛いでも、悲しいでも、寂しいでもなく、「憎い」。何故こんな痛い思いをしなければなないのだ、許すまじ、この怨みはらさでおくべきか、そんな顔で半日は怒り続ける。それとは別に、「今自分ができるもっとも得意なこと」を実践して自分を慰める。三カ月のときの予防接種では怒り狂い泣きながらながら一心不乱に指をしゃぶった、当時得意だったのだ。先だっての四カ月では、少しでも腕を触ろうものなら痛がって怒るくせに、やはり一心不乱に指をしゃぶりながら寝返りを何度もキメていた。この世の理不尽への怒りを忘れず、だがしかし怒りに支配されないよう、この世の理不尽に負けてしまわぬよう、自分のできる得意技をキメることで自分は何も変わっていないことを確認する。大人でもなかなかできないことなのでしこたま「偉いぞ!」と褒めまくってやったのだが、顔が笑っていたのが気に食わなかったのかパンチを何発も喰らいながら無限抱っこを強要された。

 

あやすとゲラゲラ笑う。特に高い高いが大好きで、おかーちゃんが常にダイナミック高い高いをしてやっていたら、おとーちゃんのぬるい高い高いではちっとも満足しなくなってしまった。挙げ句「ちょっと、こいつぬるいんですけど」という顔でわたしを見てくる。代わりにいつも通りのダイナミック高い高いをしてやったら今度は夫を見て「見た?こういう風にやってよね」という顔をしていた。赤ん坊は、結構雄弁だ。

おかーちゃんには吐き戻しを、おとーちゃんにはおしっこを引っかける。逆はないから娘なりのルールがあるのだろう。新生児の頃からこだわりの強いタイプだった。

足を動かすのがうまくなったので手を叩いて褒めるとめちゃくちゃ嬉しそうな顔をする。手を叩く音が好きなのか褒められて嬉しいのか何度か試したが、褒められて嬉しいが正しいみたいだ。情緒は日々育っている。

下に敷いたタオルを巻きつけて顔に乗せるイタズラをよくやる。窒息が怖いので慌てて駆け寄ってタオルを外すと、「わーい引っかかったー!」という顔でニコニコ笑っている。

抱っこから下ろすとぐずることがある。ウー!と唸るのでおおまだだったか、と再び抱き上げると「してやったり」という悪い顔をする。

眠いときに一番やわらかい声を出す。あうあう、あーう、ううあー、半分以上夢の中に浸りながら指をしゃぶってやわらかく喋り続ける。

おかーちゃんが歌って踊るのが好きだ。わたしは昔から実母がいきなり歌い踊り出すことをすごく嫌だと思っていたのだが、娘を産んだら歌い踊って娘をあやすおかーちゃんになった。「かえるの唄」が好きだが何故か「We Will Rock You」がもっと好きで、これを歌いながら抱っこしてスクワットをするとゲラゲラ大爆笑する。歌と踊りならなんでもいいのかと思ったが「3分キユーピークッキング」の音楽を歌いながらキユーピーの踊りを真似したときは無反応だった。こだわりの強いタイプなのだ。

 

おかーちゃんであるわたしは、こういうひとつひとつをかわいいと思っている。

おかーちゃんになる前はかわいいと思うこともなかっただろうこういうことを、ひとつひとつかわいいと思っている。

腐女子オタクのわたしはそれを見て、面白い変化だなと思っている。

文字を書く腐女子オタクのわたしは、その面白い変化を書き留めておきたいと思った。

そして文字を書く腐女子オタクおかーちゃんは、このかわいくて愉快な娘のかわいいところや面白いところを文字に起こすことで、誰かに伝えられたらいいなと思った。

人生って、そうやってつながっていくのかもな、と思いながらおかーちゃんは、娘の昼寝の間にちまちまこんなことを書き、娘のおむつからおしっこが漏れたのでせっせと洗濯機を回すのである。

 

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ふくふくむちむち育ってる。